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の地上絵、ひとつ
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One Interpretation
of the Nasca and
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このたび古代アメリカ学会の会報に発表致しました私の論文を、ここに公開致します。
20年にわたるナスカへの旅に加え、2004年ナスカ・パルパ・プロジェクトの一環としてパルパ博物館建設に関係したとき、パルパを巡って得た考えを、まとめたものです。

図1、表1は、ドイツ考古学研究所 Deutsches Archaeologisches InstitutDr. Markus Reindel よりお送りいただきました。
また、写真のうち、2、3−b、4−a、5、6については、スイスの Institute of Geodesy and PhotogrammetryProf. Armin Gruen より、使用許可をいただきました。
残りの4枚の写真は、楠田枝里子がコピーライトを有しています。
(全て、無断転用・転載・複製を禁じます。)

2006年2月 


One Interpretation of the Nasca and Palpa Geoglyphs



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ナスカ・パルパの地上絵、ひとつの解釈
楠田 枝里子


(1)

 世界遺産にも登録されている「ナスカの地上絵」は、南米ペルーの南海岸に広がる、砂漠と荒涼とした平原地帯に存在する。リオ・グランデの支流である、インへニオ川とナスカ川に挟まれた、およそ500平方キロメートルの一帯に、サル、ハチドリ、クモ、クジラなどの具象模様、三角、台形、渦巻きなどの幾何学模様、そしてそれに連なり縦横に伸びる夥しい長いラインで、構成されている。(ナスカの地上絵の分布図「図1」を参照。)

図1

 同じくナスカ地域から出土した、ナスカ時代の土器や、織物にも、地上絵と同じ図像が頻出していることから、地上絵も、ナスカ文化の担い手である古代ナスカ人が描いたものと、知られている。
 綿を栽培し、その糸を織り上げる優れた織物の技術を有していたナスカ人が、線分や図形の拡大・縮小の概念と高度なテクニックを持ち、それを地上絵作製にも利用していたことは、想像に難くない。
 しかし、地上絵(フィギュアやライン)が何を意味していたかについては、さまざまな見解があり、未だ定説はない。
 そんななかで、近年、ナスカの北西に位置するパルパと呼ばれる地域に、多くの新しい遺跡や地上絵が発見され、その発掘調査の結果が次々明らかになるにつれて、ナスカ研究も新たなステージを迎えることとなった。
 実際のところ、これまでは学者によってナスカ時代の年代設定さえ異なっている状況であったが、最前線で発掘調査を行っている、ラインデルら、ドイツを中心とする国際研究チームの分析による年代区分が現在最も信頼度が高いことから、ここではその設定(表1)を用いることとする。

表1

 ラインデルのパルパにおける遺跡発掘・分析作業で、興味深い事項のひとつは、ハウランガの遺跡より、もたらされた。遺跡は3層から成り、上層部は、中期ナスカ時代(A.D.250〜450)、その下はパラカス時代(B.C.400〜200)、さらに下の層は、B.C.600年あたりのものと、分析された。
 こうしたことからも、我々が「パラカス文化」と呼んでいるものから「ナスカ文化」への移行は、連続線上にあると考えられる。パラカス人は、旅する民、あるいは旅を強いられた民だったのかもしれない。その昔、さらに北西の半島に文化の足跡を残したパラカス人たちは、南東への移動を続け、現在パルパと呼ばれている一帯に、ある時期居を構えた。しかし、やがてそこからも移動せざるをえない状況が生じて、さらに南東へ、ナスカの大地へと移っていったのである。
 「移動せざるをえない状況」とは、何だったのだろう。パラカス時代から、ナスカ時代へと、この一帯の乾燥化が進み、深刻な問題となっていたことや、一方で突発的な大洪水による破壊にも悩まされていたらしいことが、知られている。よりよい環境、新しい可能性を求めて、人々は旅立ったのか。人口の増加に伴い、居住空間を広げる必要が生じていたかもしれない。あるいは、大きな気象変動に伴い、何か疫病のようなものが発生し、生き残るためには生まれた土地を離れざるをえなくなったということも、考えられるかもしれない。
 ともあれ、これまでナスカで発見されてきた文化の一段階前の文化の跡がパルパに認められたということは、地上絵の考察にも、同様の分析が必要ということになる。つまり、ナスカの地上絵の源流として、パルパの地上絵を考察することが有効となるのだ。


(2)

 これまでパルパの地上絵がナスカほどの注目を浴びてこなかったのは、両者の地形が著しく異なっていたからだろう。
 延々と砂と石が続く、見通しのいい平らな一帯ナスカのパンパとは違って、パルパ地方は、切り立った山の峰の連続である。その壁面に描かれたフィギュアは目立ちにくいし、方向が少し違えば見えなくなってしまう。
 現在、パルパの山々は、実は自然の山ではなく、そもそも北東のアンデスから雪崩こんできた堆積物であることが知られている。その堆積物の山を、後に、やはりアンデスから流れ込んできた水が浸食し、小刻みに切れ目を作り、数多くの峰の連続を作っていく。大きな流れは、深い谷を作り、そこに集落ができて、パルパの町ができることになった。
 パルパの町をはさむ格好で、北側にパルパ川、南側にビスカス川が通り、その北西の、リオ・グランデに挟まれた堆積物の山々をサクラメント、南東側の一帯をサン・イグナチオと呼ぶ。いずれの方向にも、夥しい数の地上絵が認められる。パルパ川、ビスカス川、ともにリオ・グランデの支流である。
 この一帯を、幾度もセスナから注意深く観察して、何よりも驚くのは、堆積物の山のうち頂が少し平らになった場所(台地)のことごとくに、プラットフォームが刻まれていることだ。実は、フィギュアよりも何よりも、台地をきれいに整備された、長四角や三角やらのプラットフォームのほうが、数多く、大きく目の前に迫ってくるのである。そして、そこから、谷へと降りていく道のように、ラインが伸びており、フィギュアは、斜面に飾りのように描かれている。
 ナスカの地上絵のフィギュアはほとんどが、一筆書きで描かれ、どこかのラインに繋がっているのに対し(写真1)、パルパのそれは、もっと多様である。ナスカのように一筆書きのようなものもあれば、斜面に、独立した絵模様として存在するものも多い。ナスカの具象模様のセンスに、あるていどの統一感があるのに対し、パルパでは、異なるレベルのフィギュアが存在する。

写真1−a 写真1−b
サル ハチドリ

 パラカスの古い時代に描かれたとみられる岩絵が、パルパの北方、チチクタラで発見された。子供の落書きのような、愛らしい人間や動物の姿。それはおそらく、身近にいる動物(リャマなど)と、その社会の上層部の人間の姿、あるいは高貴な人々を描いたものであろう。多くの人物像が、片手にトゥミ(儀礼用のナイフ)、もう一方の手には、長い棒(位の高さを示すためのシャクであろう)を持つ。さらには、頭に、大きな飾り(あるいは帽子のような被り物)を付けている。玉座に腰掛けているのは、明らかに高い地位にある人物のしるしである。(写真2)

写真2
チチクタラの岩絵

 パルパの地上絵のフィギュアにも、この岩絵に類似、あるいは繋がる人間(あるいは神)の姿が多く認められる。いつの世も、権力を持つ者は、それを誇示するように、己の姿を目立つ場所に刻みたいものなのだ。あるいは、その場所がいかに重要であるかを表現するために、社会的地位の高い人物の姿を刻んだ可能性もある。これらが、地上絵のフィギュアのなかでも、古い時代に描かれたものと、推測されている。同様に人物を描きながらも、年代の違いを思わせるフィギュアの数々に、造形の力の変遷を見ることができる。(写真3)

写真3−a 写真3−b
帽子をかぶった人 3 People

 そして、そうしたフィギュアが道先案内をするかのように、その先には、堆積物の台地を利用したプラットフォームが作られているのだ。
 堆積物の山の平らな台地を利用し、そこをきれいに均して、特定のスペースを作る。もしかすると、時には必要に応じて土地を削るという行為があったかもしれないと、想像する。そもそも堆積物なのだから、頂を削るのもさほど難しいことではなかっただろう。こうして、利用できるスペースを確保し、有効に活かして、プラットフォームを作った。(あるいは、必要な大きさのスペースまで、削り、均したのではないか。)
 元々は、そこに至る道を、人々はラインとして示したのだろう。そして、そこにプラットフォームがあることを示す装飾として、あるいはプラットフォームを飾り立てるものとして、フィギュアが壁面に描かれたのではないだろうか。
 つまり、プラットフォームを作ることを始めてからは、実は、地上絵の最も重要な部分は、プラットフォームに存在したのではないかと、考えられるのだ。
 天に近い、土地の高処にあり、直線で囲いを作り、その内側に何十、何百の人々が集えるほどのスペースを確保する・・・それは、その地域の人々が祈りを捧げるために拵えた集会所であったのだろう。2004年に、プラットフォームのひとつに立ったとき、私はそう直感したが、その後の報告により、人々が歩き回った跡や、目印の石の置物や、織物、土器の破片、スポンディルス貝などが発見されたことが明らかになった。ナスカ研究において、プラットフォームに人々が集ったという考え方は新しいものではないが、今、パルパの地形が、そのアイデアに確信を与え、さらにディテールを推測する多くのヒントを与えてくれていると思う。
 おそらく、パルパの人々は、適当な堆積物の山を均し、集落(部族)ごとに、集会所を作ったのだろう。その大きさが違うのは、集落に属する人間の数によるものだったと推測する。いくつかの方向から上ってこられるように、複数のラインを伸ばした。西洋の教会に、ステンドグラスや聖人の像を飾るように、土地の権力者の姿や、大切な動物リャマの形などを、刻んだのだ。
 人間に始まった描写から、デフォルメされた図像、幾何学的な図形へと、フィギュアも、変遷していった。これは、やはり高度な織物の技術を持っていた、パラカス人が、線を単純化し描写することに才能を発揮したことと関係がないわけではないだろう。単純化した図案のほうが、拡大も容易で描きやすいことに気付いたのかもしれない。まるで、アーティストが新しいテクニックを見せびらかすように描かれた地上絵が、多々ある。(写真4)集落ごとに異なる図柄を、技術を駆使して描き上げて、互いに張り合っていたのかもしれない。

写真4−a 写真4−b
日時計

 プラットフォームでは、祈りを捧げる儀式が行われたはずだ。神道、仏教、キリスト教など、古今東西を問わず、宗教的な儀式に効果的に用いられるのと同様に、音楽が奏でられていただろう。すでにナスカ時代の遺跡から、さまざまな楽器が出土している。
 おそらく、司祭(祈祷師)は、人々をひとつにまとめ、自らの地位を高めるために、デモンストレーションを行っただろう。その必要から、プラットフォームからスタートしたラインが、なんらかの絵を描いて、またプラットフォームへ帰ってくる、という図形が描かれるようになったのではないだろうか。これがつまり、一筆書きの地上絵の始まりだ。司祭(祈祷師)は唱えながら、そのラインを注意深く辿って、神との交信を人々に印象づけた。フィギュアのラインの幅は、通常、大人が片足をぎりぎり乗せられる幅しかない。複数の人間が分け入ることは困難だが、選ばれた一人、モンゴロイドの末裔である小柄なインディオの祈祷師なら、そのラインを器用に辿ることができたはずだ。
 面白い例がある。「鳥」と呼ばれるこの地上絵には、時代による変遷が見てとれるのではないか。(写真5)舞台となった台地に、まず、必要な人数分の長方形のプラットフォームが作られた。さらに、司祭のデモンストレーション用の、鳥の絵が、台地の残りスペースに、プラットフォームから直接、描き出された。しかし、おそらく、その後、部族の人口の増加によって、スペースが足りなくなったのだろう。集会所を拡大せざるをえなくなり、といっても、人々が立てる台地の面積には限りがあり、結局、鳥のフィギュアの一部を潰して、プラットフォームを拡大せざるをえなくなったのだ、と考える。

写真5
Bird

 同じ図形が、だぶって描かれている例も、少なくない。(写真6)たとえばこのスパイラルは代表的な例だが、おそらく、司祭の代が代わったかなにかで、儀式の形は継承しながらも、次代の力を新たに示すために、わずかにずらしながら、同じ図形を描いたものではないか。まるで一族がそれぞれの旗に紋章を掲げるように、それぞれの地上絵はその集落のシンボルとして継承され、大事に用いられていたのではないだろうか。

写真6
Spirals



 やがて、パルパに住んでいた人々が、南東への移動を考えざるをえない事態が、発生した。
 ラインデルらによれば、パルパに人々が入植してきたのは、B.C.1800〜800年あたり。当時この地域には豊富に水があり、牧草地としても使用可能であったという。パラカス時代(B.C.800〜200)には、乾燥の時代に入る。初期ナスカ時代に入って、人口が増え、アンデスの山岳地方、海岸地方との通商関係も作られていったが、気候はますます深刻になっていく。砂漠化がさらに進行し、一方で、突発的な大洪水が、何度も一帯を破壊していった。こうして、人々は、その地を離れざるをえない状況に追い込まれたのである。
 プラットフォームで人々が祈りを捧げたのは、こういった自然の驚異に対する怖れからであったか。命の水が平和に、かつ十分にもたらされるようにとの、懇願の意味があったのだろう。
 しかし、ナスカのパンパに移った一行の戸惑いはどんなものだっただろう。そこは、どこまでも平らな平原で、天に近い祈りの場所など見つけることはできない。
 それでも、人々は、パルパでの習慣を、守ろうとしたのだ。
 巨大なパルパの台地を思わせる、プラットフォーム。そして、それに繋がる長大な道としてのライン。パルパと同様に、数多くの幾何学模様の集会所が描かれた。キャンバスは限りなく広い。プラットフォームに繋がるフィギュアも、大小さまざまなものが生まれていった。深刻な水の問題を抱えた彼らが、フィギュアに水を関連づけたことは、疑問の余地がない。そこここで見られるジグザグ模様も、行き帰りを繰り返す、プリーツのような直線の連続も、共に水の流れを表している、との分析が、地上絵研究の初期のころから存在する。
 こういった経緯で、ナスカのパンパには、さらにスケールの大きく複雑な地上絵が描かれることになったと、私は考える。
 これまで、サルやトリといった具象模様ばかりが注目され、多く論じられてきたが、実はこれらはむしろ付随的な部分であり、地上絵の主たる部分は、台形や三角といったプラットフォームだったのである。
 ラインのさし示す方向について、さまざまな考え方が提示されているが、正解はひとつではない気がしている。
 それは、単なる集落からの通り道だったかもしれないし、法則性を持って綿密に計画されたラインであったかもしれない。その社会の長のセンスにより、時には、特定の季節の到来を告げる天体の方向を描いたこともあっただろう。数百年にも渡る時間の中で、複雑に絡み合ったラインの意味をひとつに絞り込むことは、不可能のように思われる。


(3)

 ナスカ最大の遺跡、カワチは、巨大な祭祀センターとして知られ、オレフィーチ率いるイタリア・チームが、長い時間をかけて発掘調査を行ってきた。
 そのカワチと、全く同じ構造を持つ遺跡が、ナスカ・パルパ・プロジェクトにより、パルパで発見された。ロスモリノスである。
 両者とも、川の流れのすぐそばに位置する、高処にある。カワチはナスカ川沿いに。ロスモリノスは、リオ・グランデがパルパ川で支流になるすぐ手前に。川の方向には土地が開け、広く見渡すことができる。
 ラインデルによれば、ロスモリノスが使用されていた期間は、A.D.50〜250。建設の開始は、さらにそこから遡ることになるか。
 カワチの建設期間は、オレフィーチによれば、B.C.150〜A.D.200。
 奇妙に重複するこの2つの遺跡は、おそらく、同じ目的を持って作られたものではないだろうか。
 地上絵のプラットフォームが、集落(部族)ごとの礼拝所であったとすれば、社会が拡大するにつれ、それらを統括する役割を持った建造物が必要になったはずである。そこは、政治的及び宗教的意味合いを持った場所だ。
 パルパに留まる人々のための、ロスモリノス、ナスカへと希望を繋いだ一行のためのカワチ。そんな図式が見えてこないだろうか。
 ロスモリノスは、突然の閉鎖を見るが、ラインデルは、それを、大洪水を予測しての閉鎖であったと、分析している。
 まだ現在のところ、ロスモリノスに、明らかに祭礼を行ったと見られるスペースは見つかっていない。しかし、カワチも、長い年月のなかで、少しずつ在り様を変え、最終的に祭祀センターとしての位置を確立したようであるから、ロスモリノスは、気象の変動により、移行の途中で閉鎖されてしまったということかもしれない。
 そうして、カワチが、ナスカ文化の祭祀センターとしての中心となっていったのではないだろうか。


 ひとつ海を隔てた、同じモンゴロイドである私たちの国も、三重県の伊勢市に、全国の全ての神社の長であり中心である伊勢神宮を有している。(正しくは、単に「神宮」と呼ぶ。日本で「神宮」と言えば「伊勢神宮」のことを指すのだ。)あまり知られていないことだが、驚くことに、伊勢の町の中には、実は、125ものお宮とお社が点在する。小さな地域単位に、すぐそばに社があり、日常生活に密接に結びついている。それらは、月や風といった自然の神々や、神話に登場する神々たちの住処だ。そして、それらの小さな神社を統括する形で、その頂点として、すぐ前に五十鈴川の流れを見下ろす内宮が存在し、巡礼者を受け入れる。またそこは、身分の高い人々が参拝する聖なる場所である。
 この構造が、ナスカにも折り重なって見えてくる。日常的な集会礼拝所である、プラットフォーム。政治的宗教的中心として、水の流れを見下ろす高処に打ち立てられたセンター。
 さらに想像をたくましくすれば・・・。(伊勢)神宮には、実は、2つの中心点がある。言うまでもなく、太陽神である天照大神を祭る内宮が頂点なのだが、もうひとつ、豊受大神という豊穣の神を祭る社が、外宮として、もうひとつの中心点になっているのだ。そして、この内宮と外宮は、同じ構造で建造されているのである。もしかすると、カワチとロスモリノスを、内宮と外宮という構図で見るのも、面白いかもしれない。
 さすれば、カワチのすぐそばの遺跡エスタケリーアが、伊勢神宮でいう斎宮、神事に備え神に仕える斎王たちの居住地であったとは、考えすぎであろうが・・・。

 神事からお神楽が生まれ、お神楽から舞踊芸術が発達したように、プラットフォームでの神事からスタートして、ナスカの地上絵は、神事を離れて純粋化された視覚的な芸術として、完成されたのではないか。だからこそ、大地に描かれた壮大なドローイングは、2000年の時を超えて、今なお人々を魅了し続けるのだ。



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