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このたび古代アメリカ学会の会報に発表致しました私の文章を、ここに公開致します。
前回の論文「ナスカ・パルパの地上絵、ひとつの解釈」とともにお読みいただければ、幸いです。

なお、図2、図3のコピーライトは、楠田枝里子が有しています。

2007年8月 


"From Palpa to Nasca - New Speculation Regarding the Migration of the People of Ancient Paracas"



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パルパからナスカへ――古代パラカス人の移動に関する新たな考察

楠田 枝里子


(1)

 世界遺産「ナスカの地上絵」でよく知られる、ナスカ文化研究は、今や更に興味深い局面を迎えている。ドイツ考古学研究所のDr.Markus Reindelを中心とするナスカ・パルパ・プロジェクトにより、新たな遺跡の発掘と解析が飛躍的に進み、90年代に発表された種々の学説でさえ、すでに否定されたり、訂正を必要とされている。ナスカ・パルパ研究は次なるステージへと進化を遂げているのだ。
 紀元前、パルパに居を構えていたパラカス人は、何らかの理由でナスカ平原への移動を余儀なくさせられ、そこにナスカ文化を花開かせたことは、昨年の会報に記した通りである。このことから、「ナスカの地上絵」をはじめとするナスカ文化の、源流としてのパラカス文化の研究が注目されていることも、すでに述べた。
パラカス人はなぜ、ナスカへと移動をしなければならなかったのか・・・。様々な理由が推測される。
 この一帯の乾燥化が進み、深刻な問題となっていたことや、一方で突発的な大洪水による破壊にも悩まされていたらしいことが、知られている。人口の増加に伴い居住空間を広げる必要が生じていたとか、大きな気象変動に伴って何か疫病のようなものが発生し、生き残るためには生まれた土地を離れざるをえなくなったということも、考えられるかもしれない。
 しかし、2006年9月、ナスカとパルパを巡りながら、私はもうひとつ、これまで言及されることのなかった、大きな要因に着目した。
 それは、地震である。


(2)

 プレートテクトニクス(プレート理論)によれば、この地球の表面は、十数枚のプレートによって覆われている。プレートは、平均100kmほどの厚さの固い岩板で、その下のゆっくりとしたマントル対流に乗って、移動している。プレートとプレートがぶつかったり、ずれたりする境界部分では、火山や断層などの地殻変動が起こり、そこで地震も発生するのである。

(図1) 世界のプレート地図

 「図1」のように、太平洋を広くカバーするのが、太平洋プレート。その西側に位置するフィリピンプレートは、北は北アメリカプレート、西はユーラシアプレートと複雑に接しているため、ちょうどその境界にあるわが国日本は、地震大国となるわけである。日本と同じく、環太平洋地震帯に属する国のひとつであるペルーでも、地震が頻発している。ペルーの太平洋岸に沿って、太平洋プレートの東に接するナスカ・プレートが、南米大陸をカバーする南アメリカプレートの下に潜り込んでいくのである。
 境界線に沿って、活断層が走り、地震が集中して発生する。最近の記録でも、2000年ペルーで記録された地震数は101(うちマグニチュードMag.5以上が9)、2001年は118(Mag.5以上が21)、2002年は102(Mag.5以上が10)、2003年は129(Mag.5以上が11)となっている。
 記憶に新しいところでは、2001年6月23日のペルー南部地震が例にあげられるだろう。Mag.8.3のこの地震により、アレキーパ、モケグア、タクナ、アヤクチョの4県、が大きな打撃を受けた。
 死亡者数77、行方不明者68(おそらく死亡者と推定される)、負傷者2713、被害者数は213430人にも及んだ。家屋の損壊は33570戸にも及び、全壊は25399戸であった。歴史的な建造物も、例外ではなかった。地震のあとの津波によっても、海岸地帯の町々が深刻な被害を受けた。
 しかしアレキーパ一帯が地震の被害に見舞われるのは、これが初めてではない。この地域には、活断層が複雑に入り組み、過去にも何度も、大地震に襲われた記録がある。
 そして、ナスカもまた、その地震多発地帯のひとつなのである。
 ナスカ近辺の詳細な断層地図を入手した。「図2」で明らかなように、パルパ(赤い印)の西側から、ナスカ(青い●印)へと、数多の断層が走っているのが見える。このラインに沿う一帯で、多くの地震が起こったことが、容易に推測できる。

(図2) パルパ・ナスカ一帯の断層地図

 1996年のナスカ地震をご記憶だろうか。11月12日午前11時59分、マグニチュード7.3の地震であった。メルカリ震度は7を記録し(場所により震度8に達した)、5000平方kmにわたって、被害を受けた。この一帯は基本的に厳しい乾燥地帯で、大都市でもなければ、さして大きな建造物もない。住民の住まいの多くは、草木を組み合わせた掘っ立て小屋か、せいぜいアドベ煉瓦で作られた簡素なものだったが、それでも、15人が死亡、負傷者は585、被害者数は66420人にも上った。住居は3868戸が全壊し、その他被害は9891戸に及んだ。76の学校や7つの保健所も被害を免れなかったという。ナスカの町の中央広場に面した博物館は地震で破壊されたまま、取り壊され、2007年1月現在も、再建されてはいない。
 しかし、アレキーパの例と同じく、ナスカを大きな地震が襲ったのは、この時だけではないのだ。 その前には、1942年9月27日に、大地震の記録が残されている。マグニチュード8.2。夕方3分間にもわたって揺れ続け、電気も、電話も、電信も切断されたという。これに続き、夜から朝にかけて15回もの強い余震があり、朝の4時には、最悪の状態にあった建物のほとんどを破壊しつくした。この大災害に耐えうることのできた建物はひとつもなかった、と当時の新聞Noticiasに記されている。
 1868年の記録もある。8月13日、ナスカと同様、イカの町のほとんどが倒壊した。
 さらに古い記録を遡れば、1664年、1716年にも、メルカリ震度9の大地震が、ナスカを襲ったとされる。こうしたことから、ざっと50年〜70年周期で、ナスカは地震の災禍に見舞われていたことがわかる。人が一生に一度、出会うか出会わないかの時間単位だ。何世代も遡るほど希薄な記憶ではない、かといって繰り返しの経験が生かせるほどの時間でもない。人生に一度の経験に、人は恐れおののくばかりだっただろう。
 古代ナスカ人は文字を生み出さなかったので、これより古い時代の記録は、残されていない。 しかし、おそらく、古代パラカス人たちが生きていた時代にも、人々は大地震の急襲に恐れを抱いていたはずである。
 時代を遡れば遡るほど、被害の大きさは想像もつかないほど悲惨なものであったろう。それは、神の怒りと受け取らざるをえない。何の前触れもなく、ある日突然にやってきて、ささやかな住まいも、畑も作物も、いや家族や自分の命さえ、一瞬のうちに奪っていくのである。天地が割れ、住み慣れた世界が一変してしまう恐怖。これほどの脅威が、他にあるだろうか。


(3)

 古代パラカス人たちがパルパからナスカへと移動した理由について、現在のところ最も馴染みやすいのは、乾燥化に伴い、水を求めての移動であったとする考え方である。
 しかし、それと同等か、もしかするともっと高い可能性で、地震による災禍から逃れて、ナスカの大平原に渡ったと、考えられないだろうか。全てを失ったあと、もう一度荒廃した土地でやり直すか、あるいは新天地での生活にかけるか。目の前の惨状に恐れをなし、後者に夢をかけたパラカス人も、少なくなかったにちがいない。古代パラカス人の全てがナスカに移動したわけではなく、パルパに留まって、次の時代を生き、文化を築きあげた人たちもいることが、それを証明している気がする。
 しかしながら、南東へと移動したパラカス人を、なおも地震は襲うことになる。「図2」で明らかなように、断層は、ナスカに向かって、えんえんと続いているのである。
 そして、さらに驚くことに、パルパ(赤)の西側及び南東の一帯、またパルパとナスカ(青●)を結んだ中間地点のパンパ一帯は、ナスカの地上絵が集中して多く描かれているところで、これらの地域と、「図2」の活断層の縦横に走る一帯とが、ぴったりと重なり合っているのだ。 それならば、と私は考える。古代ナスカ人が祈りを託した「ナスカの地上絵」にも、地震の封印への祈りと死者への鎮魂が、込められていたのではないか。
 巨大な三角や台形などの幾何学模様を集会所として、人々は、天に祈りを捧げた。生命の水の到来を。そして、地震への畏れを。司祭(祈祷師)が、集会所から長く続く直線を、注意深く辿っていく。呪文を唱え、デモンストレーションを行いながら。やがて、それはナスカ人にとって象徴的な動植物の形に繋がり、祈りは最高潮へと達していくのだ。
 たとえば、「図3」のサルの地上絵を見てみよう。なにやら両手に掴もうとしているサルの姿である。サルは水の流れ来るアンデスの生き物を代表する。そのサルから発して、すぐ下にはジグザク文様。さらに下方に、長いプリーツ状の文様が描かれる。プリーツ状のラインは、水の流れを表していると言われているが、それでは、ジグザクはどうだろう? 規則正しい階段状の折れ線は、織物や土器文様にも多々見られるが、サルの地上絵に登場するのは、それとは違う不規則なジグザグだ。地震のあとの津波、と見ることも可能だろう。あるいは、地震のカタストロフィそのものを表現しているのかもしれない。考えてみれば、地震それ自体が、波(地震波)に他ならないのである。


(図3) ナスカの地上絵「サル」

 サルの地上絵のみならず、こうした視点で、地震を表すラインを考察するのも、面白い試みとなるだろう。天の怒りを静めるため、まさに荒れ狂う大地に祈りのラインを刻みつけていったことは、想像に難くない。
 また、ナスカ最大の神殿であるカワチでも、地震との関わりを観察することができる。カワチは、実は1つの建造物ではなく、十以上もの同様の建物が肩を寄せるようにして作られている。それは世代交代による建て替えと見ることもできるが、もうひとつ、多少なりとも地震によって崩れ落ちた神殿を不運な過去として諦め、新しいものを建て増しして、神の祝福を得ようとしたとも考えられる。
 ともあれ、パルパからナスカへと移りながら特有の文化を花開かせたパラカス人に、自然が与えた地震という大きな試練は、今後様々な形で興味深い研究課題となるであろう。