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2009年7月29日、日本経済新聞の文化欄に掲載されました私の原稿を、ここに公開致します。
また、この20年、共に過ごした思い出の写真の数々を後半に掲げましたので、ご覧ください。
楠田 枝里子  


*****


 いまだ悪い夢のなかに彷徨っている気がする。

 去る6月30日、現代舞踊のカリスマ的コレオグラファー(振り付け・演出家)、ピナ・バウシュが急逝した。今年の新作公演を成功させ、ぎりぎりまで舞台に立っていたが、まもなく癌の診断を受けてわずか数日後に、帰らぬ人となった。次の公演地に向かったかのように、ふいっと姿を消したのは、ピナらしい鮮やかな旅立ちだったかもしれない。

 私がピナのパフォーマンスを初めて目にしたのは、1989年。「ネルケン」(カーネーション)という作品だった。一面ピンクの花が敷き詰められたステージを、幼児服のダンサーたちが飛び跳ねる。黒いドレスの男性ダンサーが観客に向かって挑発的に問いかけながら、ターンする。スーツにネクタイ姿のダンサーが手話でガーシュウィンを歌う。私はそれまでの舞踊の常識を根底からくつがえされる衝撃に打ちのめされた。

 それから、私のピナ・バウシュ追っかけの旅が始まったのである。ピナのパフォーマンスが見られるとなったら、世界のどこにでも飛んでいった。ミュンヘンでピナが自ら舞台に立った「カフェ・ミュラー」を観たときには、ありとあらゆる感情が心の奥底から抽出され解放されて、滂沱の涙が流れ出た。ただ「すばらしかった」と伝えにいったバックステージで、その夜のプライベート・パーティに誘われ、夜明けまで彼女の隣で過ごした。心を開いて飛び込んでいけば、ピナは誰でも、大きく手を広げて受け止めてくれる人なのだ。そうして私は、ピナのファミリーの一員に迎え入れてもらったのである。

 ピナの舞台には、人生のありとあらゆる局面がある。人は、パフォーマンスのなかで、もうひとつの現実を生き抜く体験をする。私自身も、苦しい日々を、彼女の作品を観、その存在に触れることで救われてきた。

 ピナ・バウシュは、1973年からドイツ、ヴッパータールの舞踊団の芸術監督となり、演劇的手法で表現するオリジナルの舞踊芸術を確立。「タンツテアーター」(舞踊劇場)の新たな名称のもと、次々に革命的な作品を発表した。舞台の上のダンサーたちは歌い、語り、叫び、その肉体は激しくぶつかりあい、意表を突く演出は観る者の心を深く抉った。

 やがて、ピナの手法は、ダンサーたちに質問を投げかけ、ダンサーがそれに答える形でムーヴメントが生み出され、ピナがそれらを再構築してパフォーマンスを作り上げていくという形に変わっていく。近年では、若手ダンサーを中心に、ダンサブルな構成が目立つ。

 ピナにとって、ダンスとは時代の無意識を挑発し立ち上がらせるような作業ではなかっただろうか。たとえば暴力を舞台に持ち込み、ダンスに固定概念を抱いた人を驚かせ、それがルーティン化すると、たちまち身を翻して、今度は個人のストーリーをステージにちりばめてみる。国籍も年齢も体型も異なるダンサーたちの織り成す空間は、よりスケールの大きなものとなっていく。ダンスが油断をし始めるや、対極にあるものをぶつけて、ダンスそのものが剥き出しになるように、仕組んでいくのだ。だから、ピナの生み出すものは常に時代を先導した。

 この20年を振り返れば、どれもこれも、忘れがたい思い出ばかりだ。

 ピナがヨーロッパ演劇賞を受賞したときには、私もゲスト・スピーカーとしてセレモニーに招かれ、シチリア、タオルミーナで興奮の日々を共にした。ピナ・バウシュのダンス・フェスティバルでは、シルヴィ・ギエムやウィリアム・フォーサイス、マッツ・エック、カエターノ・ヴェローゾ、日本からはヨージ・ヤマモトや山海塾など、世界中からピナを愛するアーチストがヴッパータールに駆けつけて、連日連夜パフォーマンスやコンサートを披露するという贅沢を味わった。ダンス界のみならず、芸術の数多の領域にわたってピナは大きな影響を与え続けている。

 舞台がはねたあと、ピナはどんなに疲れていても、私を心配して遅い食事に誘ってくれた。大勢の会になることも、気のおけない少人数の集まりの場合もあった。他愛のない会話に笑い、作品制作の真剣なやりとりが展開され・・・。ピナが手にするグラスには、いつも赤ワイン。ほっそりとした体に黒をまとい、タバコをくゆらし、流れてくる音楽に合わせて、長い指先や肩を揺すっていた。この上なく美しい情景だった。